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田舎のリフォーム会社社長のブログ

独立して21年。 富山の片田舎でリフォーム、不動産メンテナンス、生活代行業などで頑張っています。当社の歴史、苦労話、経営観、今日のコメント、従業員の紹介、仕事の内容などを書いています。皆様の何かのヒントになれば幸いです。

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今から10年前、便利屋のフランチャイズは、名古屋本社の「ベンリーコーポレーション」しかありませんでした。

問い合わせしたところ「富山にはまだ、出店がありません」ということでした。

説明会が東京であるということで、出席することとしました。

「とても家庭的なフランチャイズだなー。それに、フランチャイズ独特の規制が少ない。これだったら自分の努力しだいで伸ばせるかもしれない。加盟店数も80店舗程度だし、ちょうどいい時期かもしれない。」

と思ったのが最初の印象でした。

サラリーマンの頃、フランチャイズチェーン本部との付き合いがあったので、本部側、店側両方のことは十分に理解していました。

店側は、本部を当てにしてはいけない。これは、加盟するときの最低の心構えです。

失敗していく人のほとんどが本部に不平不満を持っています。

本部のせいではなく、「自分自身の技量のなさ」だということに気づいていないのです。


その一方の本部は、加盟してもらいたいばかりにいいことばかりを並べる。

成功事例を並び立て、「当社のフランチャイズに加盟すればどんな人でも成功します。」と本部のバックアップ体制を過大宣伝します。

その後、このことがひとつの原因になり、フランチャイズをやめることとなるのですが、このことは知る由もありませんでした。

すぐさま、加盟を確信するため名古屋本社に行きました。

一通りの説明を受けて「加盟しよう。」と決断しました。ここからは早かった。

すぐに、加盟金、研修費用を払いました。確か、300万円ぐらいだったと思います。

5月下旬からの研修に参加。研修生は5名でした。

研修内容は、今、考えればお粗末な内容だったと思いますが、受けている時には、より多くの知識を身につけようと思い、必死だったのを覚えています。

めでたく、卒業。7月1日から「ベンリー富山店」として出発したのです。


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子供の学校のこともあったので3月下旬に富山へ帰ってきました。荷物は

少ないと思っていたのですが、4人分となるとさすがに多い。4トンロン

グ車満載となってしまいました。

実家のあちこちに荷物を置いてやっと引越しも終了。その日から片付けの日々が続きました。

そのときで父の入院生活が4ヶ月程度経過していましたから、家の中は掃除は行き届いていない、不要なものが散乱してる状態。

そこに私たちの荷物が来たのだから大変です。

掃除をしながら、不用品を片付けていく日々が続きました。

昔の人は物持ちがいいという例の典型のような家ですので、

お揃いになっていない皿、柄のないなべ、大量に取ってあった使い古しの割り箸、スーパーの袋、消費期限の切れている食品、古着,etc

すべて捨てました。(さらには、父親の趣味のガラクタ。昔の戸、ガラス、板、丸太、鉄くず。

すべて捨てました。(両親にはとてもおこられましたが・・・・)

私たちの価値観で選別をするしかないのです。

お陰さまで、家の中も外もすっきり。見違えるような美しさ。

約1ヶ月はかかったかもしれません。

このときに、思ったのです。「私は、富山に帰ってきたけれど私の高校の友人は帰って来れないだろう。おいそれと今の地位、収入を捨てるわけにはいかない。こんなときには誰にお願いしているのだろう?」と

本屋などで調べて見ました。「そうか便利屋という方がこのような仕事をしているんだ。私にもできるのかな?」と・・・・

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週末を利用して、家族4人で車で石川加賀市へ 。

加賀中央病院の特別室に父は入っていました。

顔を見てびっくり・・・

鼻はつぶれ、頭には包帯、前歯は一本もありませんでした。

首から先が動かないように型の中に入っていました。

先生の説明を受けてまたびっくり・・・

顔面を強打したお陰で、首の脊椎が損傷している可能性があるとのこと。

現在、下半身の感覚がなく、手も不自由。

首から上が腫れた状態なのでなんともいえないとのこと 。

現在、低温療法をしているとのことでした。

このままの状態だと、良くて半身不随、車椅子生活なる可能性が

あるとのことでした。

目の前が真っ暗に・・・・

様子を見るしかありません。

富山に帰って、その日は泊まり、翌日埼玉に帰りました。

それから2週間経ったころ、腫れもだいぶ収まり、痛みも少なくなって

きたので、富山へ搬送することになりました 。

医者、看護婦が付き添い、無事に富山市市民病院へ・・・

ちなみに、搬送代は15万円だったと思います。

事故から1ヶ月ほど経った段階で、本格的な治療が始まりました。

お陰さまで外傷は治っていったのですが、自立歩行が出来ない状態でした。

埼玉から病院へ通う生活も2ヶ月経過したとき、父親から「富山へ帰ってきてほしい。最後の頼みだ。」と涙ながらに言われました。

当時、食品会社に勤めており第一線で働いていた私にとって、富山に帰るということは、収入も地位も捨てて帰るということです。

妻と話しをして、富山へ帰る決心をしたのが2月下旬でした。

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平成9年11月、富山にいた父親が69歳で会社役員をしておりました。

その会社は社員数も40名程度の中小企業で、当時儲かっており毎年

海外旅行に行っていました。この年は、中国へ行くことになっていたのですが

富山からは、関西空港が一番便利なので、仕事が終わった夜11時ごろ

バスで出発。1回目の休憩が、石川県の尼御前サービスエリアになりました。

少しお酒も飲んだようで、トイレをしておこうと思い、用を足しました。

足した途端に倒れてしまったのです。

おしっこを出した後に血圧が下がり意識がなくなってしまったのです。

その場でよろけてくれればよかったのですが、振り向きざまに倒れたので

向かいの大便用の一段上がっているタイル面の角で顔面を強打。

頭が10センチ以上割れ、大量の血が・・・鼻はつぶれてしまいました。

前歯は全部折れ、口の中も切れてしまいました。

お酒も入っていたので大量の出血だったそうです。

救急車を呼んだのですが、こんなときは遅く感じるものです。

(このコメントは、そこにいた同僚の方から聞きました)

加賀市の病院に入院。止血をして意識も病院で回復したそうです。

富山の家で留守番をしていた母が連絡を受けたのですが、なにぶんにも

真夜中。高速道路を一人で走っていくわけにもいかず、朝まで待つことに

その当時埼玉県川越市に住んでいた私に連絡をよこしたのが、朝、6時ごろだったと思います

親類の方と一緒に母は駆けつけ、命に別状のないことを確認。

私は、週末に行くことにしました。

ここからが、独立という運命の歯車が回りだしたちょうどその時なのです




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HN:
伊勢 徹
年齢:
63
性別:
男性
誕生日:
1960/05/18
職業:
会社役員
趣味:
ゴルフ
自己紹介:
両親、妻、犬(ラブラドール:ブラック:名前アッシュ)ネコ(雑種:チーコ)の4人+2匹と生活。
長女、長男は大学生で東京でそれぞれ一人暮らし。
腰の手術をしてからは、大幹を鍛えることに意欲を見せ、筋力UPに努めています。
自分では「まじめな人間」だと思っているのですが、「しょわしない(落ち着きがないという意味)」「面白い人」「いい加減」といつも言われます。
性格は母親に似ているのかもしれません!!

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