昨日、ある方とお話をしていた時のこと。
その方は、人を鼻から信用せず、自分を中心にして議論をされます。
その内容はもっともなところもありますし、反論しようのないこともあります。
「自分たちの要求はなぜ出来ないのでしょうか?時間はあったはずです。」
もっともなことです。
「Aさんはどうゆう人ですか?私は信用できません。」
そうかもしれません。
「これだけ言ってもどうして指示に従えないのですか?」
その通りです。
いちいちその通りです。
しかし、私はどうも納得がいかないところがあります。
それは、人を「性善説」で見るか?「性悪説」で見るかと言うことです。
「時間があったはずです」
「指示に従えない」
この方は、自分を中心にして考えを組み立てておられます。
自分が一番だという前提のもと、出来ない人間はおかしいということを強調されます。
銀行の支店長に聞いたことがありました。
「銀行は行員を性悪説で見ています。大金を目の前で見たり、人の大金を預かっているといつか何か犯罪を犯してしまうかもしれません。」
言われてみればその通りです。
何だか、部下を信用していないのかと思ったりしますが、その仕事の性質から言っても支店長の考え方は正論です。
行員の方は優秀な大学を卒業され、金融の分野のプロです。
現行制度の落ち度を発見したら、それを試してみたくなるかもしれません。
私は、人を「性善説」で見ています。
「人は他人に言われたことを即実行できる人間ばかりではない。たまには楽をしたい。判っているけど出来ない。」
心の強い人は、おそらく自分で道を切り開き、自分の力で生きていけます。
そのようない人間は何割いるでしょうか?
働きアリの法則、「2対6対2」の割合が人間社会の中でも同じであれば、上位2割の人間しか自分で考えて行動できません。
6割の人は、上位2割の人について行くだけです。
ついて行くのにやっとかもしれません。
残りの2割の人が問題です。
いわゆる「お荷物」と言われる人たちです。
このようなことを考えるに、「性悪説」で上位2割の人に対しては意見を戦わせ、議論をしたほうがいい結果が生まれるかもしれません。
残りの8割の人にはやはり「性善説」で語っていくしかないような気がします。
一生懸命やっているけど、結果が伴わない。
その人にはハードルを下げて、時間を掛けて超えてもらうしかありません。
その時間が待てるのであれば待ち、時間がないようであれば「退場」してもらうしかありません。
自分を中心して考えることは非常に危険が伴ないます。
自分と同じレベルの人と議論しているのであれば、その内容も明確で納得のいく話として聞けます。
しかしどうでしょうか?自分と同じと思える人間はそんなにいますか?
私は「性善説」で人に接し、出来ない理由をひとつづつ聞きながら、出来るように説得していったほうが人間としてとるべき「道」だと考えるのですが・・・・
皆さまはいかかでしょうか?「性善説」?「性悪説」?
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