昨日も東京都内の113歳の女性の所在不明が発覚しました。
長女が最後に会ったのが24年前で、その間、何の連絡も取ろうしなかったこと自体が不思議ですが、本人の弟と住んでいると思っていたというこどです。
どうしてこのようなことになるのでしょうか?
その前は、111歳の男性が死亡していたのにも関わらず、区役所の職員が会うことを拒まれたということで所在の確認をしていませんでした。
私には理解できません。
個人主義が行き過ぎ、親子関係も希薄になり、自分だけで生活できる現代ですが、実の親の所在を確認することぐらいはするのではないでしょうか?
ましてや、100歳を超えてくればいつ何どき死ぬかわかりません。
このようなことがあっていいものだろうかとつくづく思います。
最近、離婚という話は珍しくありません。
再婚し幸せな家庭を作っておられる方もおられます。
現在の生活や家族は大切だとは思いますが、親子関係は切ることが出来ません。
その辺の道徳観念をもう一度考え直してみるべきではないかと思います。
自治体の怠慢も責められるべきではありますが、もう一度我々自身が考えてみるべきではないでしょうか?
さて、NHKクローズアップ現代で、葬儀のやり方が変化しているというのを放送していました。
自分の葬儀をどのように行いたいか?ということを生前に家族と話をして決めるというような内容がありました。
葬儀は、何のためにあるのか?
よく、坊主がおっしゃるのですが、死んだ人が生前その人と関わりのあった人を一同に集め、死んだ後の話や、死んだ人を偲ぶためだと言われます。
(坊主という言葉は、僧侶という言葉より上だそうです。でも、なんかそういう風には思えませんが、くそ坊主という言葉が影響しているというkとだそうです。寺のあるじという意味)
それを考えると、残された人がどのような葬送をしたいかということが重要のような気がします。
しかし、生は選択できません。
死は選択できます。
その意味からすると、自分らしい葬儀をしてほしいということは望んでいいのかもしれません。
私の歳で葬儀のやり方を決めるには早すぎますが、少しづつ考えていってもいいのかも知れません。
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