東関大震災から丸2年が過ぎました。
わずか2年と感じるのか、まだ2年しか経っていないと思うかは別として、私はあの日のことを忘れることはできません。
あの日、午後から富山刑務所へ更正保護協力会主催の見学会へ参加していました。
私自身、富山刑務所の見学は複数回目ですから、むしろ初参加の方に説明をする位でした。
見学が終了し事務所で説明を受けていたとき、揺れを感じました。
2階だったのですがかなり揺れたことを覚えています。
「この建物は免震ですので安心してください。それにしても揺れていますね」という刑務官の言葉。
10分ほどしてから、「東北地方で大地震が発生したらしい。テレビで速報が流れていますが、とんでもないことになっているようだ。説明会を中止して解散にいたします。」
私はすぐに事務所に帰り、テレビを見ました。
最初の光景は、津波が仙台沿岸部に押しよせている映像でした。
松並木のそばまで迫る津波。
そのすぐそばの内陸部では高速道路と思われる高台に向かって逃げる車。
津波は生き物のように家やビニールハウスを飲み込み、そして仙台空港にもやってきました。
空港ターミナルビル屋上には多くの人。
滑走路には津波が・・・・。セスナ機などが飲み込まれていきました。
その後は、仙台港や松島あたりの模様が生中継されていきました。
あれから、2年。
テレビではここ1週間でさまざまな番組で震災のその後を放映していますね。
いまだに野原になっている市街地。うず高く積まれている瓦礫、車、船。
その光景をみればまだ変わっていないと思えますが、少しづつ復興に向けて動いているのでしょうね。
ある番組で言っていました。
「この町の海岸線に最高で12mの防潮堤ができる計画になっている。私たちはこれができると海を見ることができなくなる。将来を考えてその選択は本当に正しいのだろうか?」
人間は自然を征服したように思えますが、実は何ひとつ征服できていません。
人間は自然に逆らうのではなく、自然と寄り添って生きていくべきではないでしょうか?
そう考えれば、津波の来ないところに居住するという選択肢をしていったほうがいいのではないかと思います。
ちょうど今、富山では「インカ帝国展」が開催されています。
マチュピチュという「空間都市」がペルーの高地にありますが、その建設された意味はいろいろあるようですが、高度な文明を持っていたことは事実です。
「要塞」としての機能、王の避暑地ではとも言われていますが、熱帯地方の高原はさぞかし過ごしやすかったのではないでしょうか?
私たちも単なる経済活動だけの論理で住居を考えるのではなく、その先のことまで考えた居住地を考えていかなかればならないのではないでしょうか?
今回の津波を教訓にして、災害のすくない地域を活性化していくことを推進するお手伝いができればいいかなあと思っています。
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